うちの母方の祖父はあたしが中2の時に他界した。
あたしが小学校に入学する寸前に、市から祖父母の住む村に引っ越したときは、すでに拾って1年たった白黒の雑種の犬、ポチを連れて行った。
夕方のポチの散歩はあたしの役目で、ポチは大好きだったけど遊びたかったり面倒くさかったりするあたしの代わりに時々おじいさんが散歩をしてくれた。
たまに「ほれ、負けたほうが散歩だ」とか言ってじゃんけんを仕掛けてくることがあって、そういう時は「おじいさんがあたしとじゃんけん」というシチュエーションがおかしくてなんとなく楽しかった記憶がある。
おじいさんは禿げ頭で、いつもてっぺんにぼんぼりのついた茶色の毛糸の帽子をかぶっていた。
いつだったかその帽子がダメになったので、同じような帽子を手編みしてプレゼントしたことがある。
子供の作るものだし、特にぼんぼりがあまりうまくできなかった記憶があるのだが、おじいさんは毎日それをかぶってくれていた。
あたしが小4の時におばあちゃんが他界してから、ずっと吸っていたタバコもやめてしまった。
あたしはタバコが嫌いだったから、やめたのはすごくよかったけれど、それが喪失感を表しているようで手放しで喜べなかったような気がする。
うちの中学校は郡内でかなり駅伝が強い中学校だった。
あたしは小学校のロードレースで6年間ずっと女子の部一位だったし、村内陸上競技会で800mの新記録も持っていたから、当然中学校に入ったら駅伝部からお声がかかるのは予想ずみだった。
しかし、小5のときは練習で両足首を痛め大会に出れず、小6のときはたった一回800mを練習しただけで足首が痛くなってしまった私にはそんな練習は無理、と母親から禁止令が出ていた。
もとより団体行動が嫌いで駅伝部なんて全然入りたくなかったあたしには大喜びの禁止令で、先生から打診されても「足首が弱いからダメってお母さんから言われているんです」と断り続けていた。
ところが中2の6月、大会2週間前になって「たった2週間だったら練習してもいいだろう」と職員室で無理やり説得された。
「足首が痛くなったら出なくてもいい」という条件もついていれば断りきれない。
すでに数ヶ月前からみんなで練習していて、部の雰囲気も出来上がっているところに途中から参加するのはものすごく嫌だった。
その頃はおじいさんはもう寝たきりになっていて、介護で大変だった母の代わりに、たまに夜私が一緒に寝て寝返りを打たせたりすることもあったのだが、それを主張しても駅伝熱に浮かされた男性教諭はほだされてくれなかった。
いよいよ明日から練習に参加、という日に在宅介護だったおじいさんは容態が悪化して病院に運ばれたあと他界した。
結局あたしはそのせいで一度も練習に参加することはなかった。
もちろん大会にも。
私は大部分の大人には想像もできないだろうというくらい、駅伝部の練習への参加を考えるだけで苦痛を感じていた。あたしにとって中学校の同級生なんてみんな
バルバロイみたいなもんだったし。
だから後になってみると、おじいさんが入院したタイミングが、ポチの散歩をしてくれたおじいさんとどこか重なったりした。
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弱い足首はその後も本領を発揮し、6年前に北パキスタンで捻挫したのがそのまま残り、ちょっとヒールのある靴を履けばすぐ悲鳴をあげ続けている。